江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者
江戸川乱歩
2004年7月20日 初版1刷発行
株式会社光文社
江戸川乱歩との出会いは、小学校低学年くらいの時、父の書斎でのことだった。
何か面白い本はないかなと父の本棚を探索していた時に、ポプラ社の少年探偵団シリーズ「怪人二十面相」を見つけたのだ。最初は、絵本だと思って手に取った。そんな淡い期待を裏切られたものの、僕はその時からその本を熱心に読んだ。そもそも「二十面相」という単語も知らなかったし、作中に出てくる単語はまだ低学年だった僕にとっては難しかったが、父に教えてもらいながら一生懸命に読んだと記憶している。小林君の活躍、明智小五郎と怪人二十面相の対決、びっくりするトリック、僕は熱烈な明智小五郎のファンになったのだ。
まだ小さかった僕は江戸川乱歩が好き、というよりは、少年探偵団シリーズが好きであり、彼が「人間椅子」「白昼夢」といった所謂怪奇小説を書いていることのも知らなかったし、「孤島の鬼」「黒蜥蜴」のような(大人向けの)探偵小説を書いていることも知らないでいた。江戸川乱歩は子供向けの小説を書いていて、江戸川コナンの苗字のモデルになったということくらいしか、彼について知らなかったのである。
それらの所謂大人向けの小説を読んだのは高校生〜大学生くらいの時であろうか、春陽堂書店の人間椅子を読んだのを覚えている。ジャケ買いであった。表紙の絵が独特でとてもかっこよかった。それから江戸川乱歩が描く怪奇的側面の虜になった。
そうして、僕は社会人になると江戸川乱歩の全集に手を出すのである。きっかけは、当時ホラー小説やホラー漫画の熱烈なファンであることを吹聴していた際によく聞かれた、じゃあ一番好きな作者は誰なの?という質問である。僕は媒体問わずホラー作品が好きだったので、一番好きな作者など考えたこともなかったのである。そこで僕が出した答えが「江戸川乱歩」なのである。それは今までの人生で一番長い期間に渡って読んできたのが江戸川乱歩だからである。そんな彼が残した、全ての作品を読みたくなったのだ。
かなりの時間をかけて全集を読了したあの時からかなり月日が経ってしまったが、「ウラメシノハコ」をつくるにあたって、もう一度彼の全集を読んで、その記憶を残そうと思ったのである。
このシリーズは全30巻からなり、第1巻は全22話1を収録しているオムニバス形式である。一話一話、書評・考察を書けたらと思う。
書評及び考察
!! 下記ネタバレを含みます !!
二銭銅貨
ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤシヨーテン。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.35
松村武と「私」がある盗難事件を起点として、推理問答をする話である。どんでん返しがある点非常に面白い。暗号を複合化して現れた文章の文字を8個ずつ飛ばして再複合し「ゴジャウダン」と出力するのは、多少無理があると感じる。2
また、「私」はこの問答に少なからず金と労力をかけている。そこまでして、松村に一杯食わせようとする「私」を見ていると、彼が窮迫していたのは真の意味で金の事だけではなく、要は、恐ろしいほどに暇だったであろうことが推測できる。
この作品は記念すべき乱歩のデビュー作であり、ここから彼の数多の作品が生まれるのだと思うと、感慨深いものである。当時月刊誌「新青年」にこの作品を載せてくれた編集者森下雨村さんには感謝しかない。
一枚の切符
私が提供しようとする所の証拠物件なるものは、左の二点の、極くつまらぬ品物である。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.69
物語は左右田青年と松村青年が食事処で件の轢死事故について話すところから始まる。黒田清太郎刑事の推理によって富田博士は引致される。彼の嫌疑を晴らす為に左右田青年は自らの推理を書面にまとめ、本事件の担当判事に送りつける。
この作品は処女作「二銭銅貨」と同時期に書かれたものである。二銭銅貨が暗号モノであるのに対して、本作品はバリバリの推理小説であり提示された要素をもとに読者が自由に思慮できるものとなっている。
個人的には「二銭銅貨」の方が好みである。
黒田と左右田それぞれの推理は対照的であり、それぞれの筋はふむふむと納得できるものではあるが、左右田が作中最後に言い放ったセリフから、彼らの提示した証拠の数々は結局は状況証拠であり、話し手の表現、聞き手の解釈によって真実は180度違うものになることを示唆している。その点に於いて「二銭銅貨」と近い概念が垣間見える。
個人的には黒田の推理を推したい。左右田の推理だと、轢死者の傷口の出血が少ない点と、博士の手習草子点に対する反証が弱いと感じた。
また、その推理の場合、犯人は邸宅から駅に向かったルートとは別のルートで邸宅に帰ったことになる。犯人は本来駅で夫人を下ろした後、もと来た道を折り返すつもりでいたが、駅に至って邸宅を見返した際に足跡がついてることに気づいて、別のルートを通らざるを得なくなった、と考えるほうが普通であるからである。若しくは、犯人が後ろ向きに来た時につけた足跡を辿って邸宅まで帰った可能性も否定できない。
いずれにしても、僕は探偵になれそうにない。
恐ろしき錯誤
ハッハッハッハッ…………ヘッヘッヘッヘッヘッ…………フッフッフッフッ…………
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.121
火事で変死した妻妙子の死因の真相を知った夫北川が犯人に復讐を仕掛ける話。
作中を通して語られる「脳髄の盲点」とは、北川が最後の最後で野本に渡すコインを間違えてしまったことを指すと思われるが、野本や他の友人が犯人でなかった場合、北川に、火災の日に妙子と何者かが話していた件伝えてきた越野が怪しくなる。その点が本当の「脳髄の盲点」なのではなかろうか。
これほど復讐の用意周到な準備を施したにも関わらず、ひょんな手抜かりで失敗し、挙げ句の果てには発狂してしまうとは、復讐というものは、実に儚いものである。
また、火災の夜、妙子に話しかけたのが北川の友人でもなく、その話が越野の作話でもない場合は、単純に夫に愛想を尽かした妙子が自殺したと考えるのが普通であろうか。仕事一辺倒の北川が、妙子が思い詰めていることにすら気づかなかったこと自体が「恐ろしき錯誤」なのではないか。
二癈人
夢の様にのどかな冬の温泉場の午後であった。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.127
湯治にやってきた二人の老人が出会い、昔話を始める。
二人の癈人が登場するが、その意味合いはそれぞれ異なる。斎藤の推理に優しさを感じるのは僕だけだろうか。
無論夢遊病者というのは自らが夢遊病者であることを自ら確知することはできず、常に本人以外の第三者の証言によって罹患者はそれを知るのである。この理論は作品の要であり、非常に面白い。
斎藤の推理があった後でも、もう時すでに遅し。井川が癈人を脱することはない事を作中最後で示唆しており、なんとも悲しいものである。
双生児
こうして私は姦通罪さえも犯して了いました。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.165
ある一人の死刑囚が教誨師に打ち明けた話。
指紋と、指紋の隆起と隆起の間の部分が反転してしまっていた事から、双子の兄の指紋だと勘違いした弟の手抜かりをきっかけにして、弟がした第二の殺人事件が暴かれる。
しかし、乱歩が描きたかった(力を入れている)のは、明らかにその過程の方である。双子の弟が零落し、金欲しさに自らの兄を手にかけるが、その動機の骨子は金ではなく、肉親憎悪のような、自らに似てるものを嫌悪する感情に近いものなのではなかろうか。3
彼が兄を殺した後見ていたのは、兄の霊ではなく、自分自身だっだのだ。
D坂の殺人事件
彼等の、パッシヴとアクティブの力の合成によって、狂態が漸次倍加されて行きました。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.214
明智小五郎が初めて登場した記念すべき作品。
タイトルと言い、内容と言い、本当にカッコよくて、大好きである。「私」や明智小五郎の真似をして、カフェに入り浸り、冷やしコーヒーを啜りながら窓の外を眺めて、往来する人や車を観察するのが僕の日課となってしまったほどに。
ピシャッとしまった障子の先で30分に渡り行われていた営みを想像すると官能的衝動を抑えられない。蕎麦屋の主人が事件後すぐに自首したところをみると彼は真の悪人ではないのだろう。惨虐色情者も被虐色情者もその特質は料理にかけるスパイスと同じように、料理自体を形成するものではないが、ふりかけることにより料理の形相や味を変えてしまう点が少し不憫に思われる。
蕎麦屋の主人はスパイスが辛過ぎたのである。
心理試験
そら、サラサラという音がしているでしょう。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.261
蕗谷清一郎の練りに練られて行われた犯罪を明智小五郎が探偵する話で、心理試験の結果を通して優勢だった蕗谷の立場を覆す明智の推理、尋問は圧巻である。
ただ、もし事件当日の前日、お婆さんが部屋に六歌仙の屏風を拵えなかったら、この対決は蕗谷の勝利だったのではなかろうか。彼の完璧すぎる心理試験の結果は彼が真犯人であると疑う要素にはなったが、それを確たるものとするものではなかった。何一つの物的証拠をも残さなかった蕗谷は犯罪者としては天下一品である。その驕りが、最終的に彼を敗北させる要因になったことは間違いない。
心理試験本来の結果の解釈の裏をかくアプローチは非常に乱歩っぽく、初めて読んだ時は驚いてわくわくしたものである。
黒手組
人生は面白いね。この俺が今日は二組の恋人の月下氷人を勤めた訳だからね
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.304
「D坂の殺人事件」の主人公「私」の伯父の娘(従姉妹)が黒田組に拉致されたことが物語の発端となる。
この騒動は結局富美子の駆け落ちに便乗して一介の書斎である牧田が金欲しさに起こしたものであるが、その動機も女関係であり、牧田は自らの恋の成就に金が必要であった。牧田は金が手に入り、富美子はクリスチャン服部と公に結ばれ、身代金の一万円は伯父の元に戻るなんとも円満な終わり方だが、どうも身代金受け渡しのトリックに無理がありそうで、暗号解読が難儀すぎる為、物語に入り込めない自分がいたりする。
伯父のセリフからも分かる通り、戦前は個人でもピストルの購入ができたそうだ。種々業界の重鎮達がピストルを使って秘密倶楽部のような場を用意し、血生臭い遊戯に興じていると言う陳腐な妄想が掻き立てられる。
赤い部屋
生きているという事が、もうもう退屈で退屈で仕様がないのです。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.310
乱歩が言う「プロバビリティの犯罪」が詰まった作品。刑法に於ける未必の故意に性質が似ている気がするが、前者は行為前に殺人の故意が明白に存在する為、正確にはこれら二つの概念の定義は異なると感じる。
物語は乱歩お得意の全て嘘でしたという結末だが、序盤の赤い部屋の幻想的で怪奇的な雰囲気までも壊している点が、悪い意味で印象的であった。
また、T氏の語るエピソードの中に「恐ろしき錯誤」の妙子を彷彿とさせる人物が登場する。4しかしこの作品の中にT氏は登場していないと思われるが、T氏はどこからかこの話を聞いたのか。
日記帳
ああ、何という子供らしい、同時に、世にも辛抱強い恋文だったのでしょう。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.352
内気な恋というのはいつの時代もその根本は変わらない。病躯にありながら、文通の手紙を出す日にちとローマ字を紐付け暗号を拵え、3ヶ月かけて愛を告白する様は、何をするにもやれタイパやコスパと騒ぎ出し、チャットツールの「既読」という二字に鶏犬不寧と眠れぬ夜を過ごす我々現代人にとってみれば狂気の沙汰であろう。そしてその返事をヒロインが切手の角度を変えて訴えた事に気づかず死んでいく弟はなんとも言えない儚さを孕み、なんとももどかしいものである。
作中の最後で、主人公が弟の日記帳を読んで終始わなわな震えていた理由がわかるが、僕自身もドキッとしてしまった。
算盤が恋を語る話
十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.364
最初から最後まで、勘違い男が可愛らしい話である。乱歩作品初のポップな作品と言っていい。たぶん、TはS子に暗号などつかわず、普通にお誘いすればきっとうまくいく、そんな感じがした。
S子が最後に残した算盤の盤面は、奇跡としか言いようがないので、その話をネタに今すぐ猛アタックをするべきである。
幽霊
辻堂の奴、とうとう死にましたよ
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.381
わかってしまうとなんだ大したことないなと思うことは多々あるもので、手品なんかがその最たるものである。あれほどドキドキしたものが、タネがわかってしまうと途端につまらないようなものに思えてしまう。タネを知りたがったのはこちら側だというのに、なんとも身勝手なものである。
平田氏は直接手を下したわけではないが、「ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記」より、のび太一行が熊虎鬼五郎の軍勢に復讐するシーンを思い出してしまった。
盗難
驚いたね。あれはみんなにせ札だったのだよ。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.421
二重のどんでん返しがある作品。
主任は本当に善人だったのか、二回目に現れた警官は本物なのか、盗難の対象となった金は偽札なのか、またそうであるならいつから偽札だったのか、などとたくさんの要素が帰着することなく物語は終わる。読んだ後に何とも言えない浮遊感が残る作品である。
この作品が泥棒からの予告上が届く、初江戸川乱歩作品である。この頃にはすでに、見張りの警官が奴さんを務めるというトリックがあったのかと思うと、感慨深いものである。
白昼夢
アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.429
陽炎が揺れる真っすぐな埃っぽい大通り、きっと今で言う大通りとは違うのであろう。地面はコンクリートでなく土、砂が覆い風が吹けば、表面の砂がさらさら波打つようである。その往来で、自らの妻を殺し、屍蝋にした主人に出会う。もうどこまでが真でどこまでが偽であるか、その境が曖昧になり困惑する。
本来犯罪を取り締まる側の警察官も彼の演説に熱心に聞き入っているシーンは何とも奇妙である。日常であるはずの世界に絶妙なズレが生ずることで、主人公と読者は幻に誘われるのである。
それにしても、最近の夏は本当に暑い。白昼夢にとどまらず、臨死体験をせぬよう、外出の際は水分をしっかりとって挑みたいところである。
指環
オイ、いい加減にしらばくれっこは止そうじゃねえか。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.442
A、B二人のセリフのみで構成された作品。
Bが指環を蜜柑の中に隠したと思わせておいて、実はAの煙草入れの底に隠し、Aが駅の改札を出るときにBが指輪を抜き取ったようだが、いくらAが蜜柑を取りに行こうと必死だとしても、煙草入れから指環を抜き取るのは無理があるように感じる。
蜜柑を走行中の電車の車窓から投げ捨てるのは、その蜜柑を紛失、もしくは蜜柑が衝撃で砕けた際に、仕込んだ指環が紛失する可能性が大いにあり、そうでなかったとしても、落下地点の特定は難しそうに思える。しかも、紛失しなかったとしても、破損の危険性も孕む。そもそも蜜柑を放り投げた行為を見て、蜜柑の中に指環を仕込んだに違いないと瞬時に考えるAの妄想力はすごい。
夢遊病者の死
エッ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.455
トリックとしてはそれほど手の込んだものではないが、それまでの過程、及び彦太郎の悲劇の描写が巧い。父にも言い出せない夢遊病の癖で父の家に居候し、何もかにもうまく行かない中、父と喧嘩をしたが、仲直りをした矢先の惨事である。彼は自らの錯誤にどれほど恐怖し、父の死に悲しみ、自身を恨んだことであろうか。
「二廃人」において描かれた夢遊病というのは本人は第三者に指摘されないとそれに気づかないというアプローチだが、今作は、本人のみ夢遊病者であることを知っていたという点に終息する為、乱歩の夢遊病に関する引き出しの多さに驚く。
百面相役者
ハハハハハ、あれは君、空想だよ。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.491
京劇の一つに変面というものがある。華やかな演奏と共にパッパッと瞬く間に変わる演者の面が変化していき、観る者をあっと言わすあれだ。なんでもそのタネは中国国家機密であり、一子相伝の秘技であるとのこと。
今作における「怪美人」では変面のような「一瞬で面が変わる」という要素に重きを置いてはいないが、演者の面が変化していく。その面が問題なのである。「人肉の面」とは奇妙なものだ。結局はRの法螺話だったわけだが、それを主人公が真に受けるところを見ると、その面はよほど精巧にできていたに違いない。
屋根裏部屋の散歩者
御無沙汰
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.534
押し入れや屋根裏というのは不思議な魅力があるもので、三郎がそれらに心躍らす気持ちは痛いほどよくわかる。犯人が屋根裏から殺人を行うトリックは思いつくとしても、犯人のそこに至るまでのストーリーをこれほど奇妙に描く小説を、僕は他に知らない。屋根裏から隙見するときの景色、そこに生活する人々の描写は洞察力に優れ、非常にリアルで秀逸な筆致を呈している。
三郎の動機として、暇で面白みのない生活に嫌気がさしているさなか、殺人という劇薬を秘密裏に服用するトリックを思いたことが挙げられる。そして自分の思惑通りに事が進んだことから、有頂天になり、大胆な行動に出る。よせばいいのに明智に対して、事件現場の調査を促したりする。それが契機となり、すべてが水泡に帰すわけであるが、その一連の過程、三郎の心理描写等がとても精巧に描かれている。
また、最後の明智と三郎の問答も面白い。明智が巧みに犯人を追い詰めていく過程は読んでいてドキドキしたものである。明智の「君はちゃんと自首する決心をしているのだからね」というセリフは、彼が三郎が小心者であるということを見通している発言に思われる。
一人二役
ハハ……、女なんて魔物ですね
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.565
どこかほっこりする作品。
全てを見通していたTの妻の発言がどこまで本当かわからないが、放蕩旦那を矯正した彼女はTよりも一枚も二枚も上手なのである。
疑惑
おれは正に悪党だった
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.603
二人の会話からなる作品。
フロイトのアンコンシャスバイアスを持ち出して、殺人願望を無意識下に幽閉したとあるが、彼が言う猫がその斧を落としたという発言自体が確証バイアスから発せられたものであった場合、犯人はいったい誰なのかという再考察の余地を残している。
本当に、無意識というのは恐ろしいものである。
人間椅子
オオ、気味の悪い
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.629
椅子の中に人間が入り込み、そこに座る者の体温、臭いを感じ恍惚とする男の物語。こんなことを考え出す乱歩が恐ろしいが、どこか、男の気持ちが全く理解できないわけではない感じがある。乱歩は、今まで聞いたこともないが、人間の心の奥底で萌芽し得る新しい変態的欲望を考えるのが得意とみえる。
結局は男から、全て創作である旨手紙が届くが、このどんでん返しは結構好きである。
接吻
すまじきものは嫉妬だなあ
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.650
妻が夫がいない間、夫の写真に接吻をするという何ともかわいらしい作品であるが、これにしてもその接吻をしていた写真に写る男性が、村山なのか、宗三なのか、本当のところはよくわからない。
もし、全社であった場合、妻はとんでもない名役者であり、後者の場合は、ほっこりエンディングだが、この宗三という男はねちっこいので妻は彼との離婚を考えた方がいいかもしれない。
まとめ
僕の実家には屋根裏があった。
そこには、色々なモノが配置され、物置のようにして使っていたのである。そこには屋根に出られる窓があった。その付近(内側)に巨大なスズメバチの巣ができて家族を苦しめたり、飼っている猫が迷い込んで、夜な夜なにゃぁにゃぁと助けを求めてきたり、天井の柱からむき出しになっていた釘のようなものが僕の肩にささったり。屋根裏にはたくさんの思い出がある。
僕はさながら「屋根裏部屋の散歩者」だったのである。小学校が終わると、一目散に家に帰ってきて、友達と遊ばずに猫を連れて、屋根裏部屋へ駆け込んだ。ライトや本なんかを持ち込んで読書に夢中になったり、探検して一階の部屋に降りてみたり5、生地の反物なんかを整然と並べ、ベットに見立てて昼寝をしたりした。
だから、乱歩の「屋根裏部屋の散歩者」を初めて読んだときは感動した。誰にもわかってもらえないと思っていた僕の趣味をわかってもらえた気がした。
もう何年もそこに足を踏み入れてないが、今度機会があったらば、散歩してみようかな、と思った。
- 各作品の初出を下記に記述する。
「二銭銅貨」月刊誌「新青年」(博文館) 大正12年4月掲載(1923)
「一枚の切符」月刊誌「新青年」(博文館) 大正12年7月掲載(1923)
「恐ろしき錯誤」月刊誌「新青年」(博文館) 大正12年11月掲載(1923)
「二癈人」月刊誌「新青年」(博文館) 大正13年6月掲載(1924)
「双生児」月刊誌「新青年」(博文館) 大正13年10月掲載(1924)
「D坂の殺人事件」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年1月増刊掲載(1925)
「心理試験」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年2月掲載(1925)
「黒手組」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年3月掲載(1925)
「赤い部屋」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年4月掲載(1925)
「日記帳」旬刊誌「写真報知」(報知新聞社) 大正14年3月5日掲載(1925)
「算盤が恋を語る話」旬刊誌「写真報知」(報知新聞社) 大正14年3月15日掲載(1925)
「幽霊」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年5月掲載(1925)
「盗難」旬刊誌「写真報知」(報知新聞社) 大正14年5月15日掲載(1925)
「白昼夢」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年7月掲載(1925)
「指環」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年7月掲載(1925)
「夢遊病者の死」月刊誌「苦楽」(プラトン社) 大正14年7月掲載(1925)
「百面相役者」旬刊誌「写真報知」(報知新聞社) 大正14年7月15日、7月25日の2回に分けて掲載(1925)
「屋根裏部屋の散歩者」月刊誌「新青年」(博文館) 大正14年8月増刊掲載(1925)
「一人二役」月刊誌「新小説」(春陽堂) 大正14年9月掲載(1925)
「疑惑」旬刊誌「写真報知」(報知新聞社) 大正14年9月15日、9月25日、10月15日の3回に分けて掲載(1925)
「人間椅子」月刊誌「苦楽」(プラトン社) 大正14年11月掲載(1925)
「接吻」月刊誌「映画と探偵」(映画と探偵社) 大正14年12月掲載(1925)
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.653-693 ↩︎ - 乱歩本人もこのからくりを「どうもぎこちない」とのちに言っている。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.50 ↩︎ - 第一の殺人に関して自分と瓜二つの人間を殺す場面の変な味に陶酔したこと、自分と同じ顔がバネ仕掛けのように近付いてくる時の怖さなど、乱歩自身が、トリックではなく殺人の過程について重きを置いている点垣間見える。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.174,175 ↩︎ - 北川、野本、井上、松村、越野、作中の登場人物にT氏はいないように思える。ただそれぞれの名前が不明な為なんとも言えないが。
江戸川乱歩 [2004]『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』p.709 ↩︎ - 一階の部屋にある押し入れ内の天井とつながっていた。 ↩︎
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