【書評】あの世レストラン

怪談レストラン⑬あの世レストラン
怪談レストラン編集委員会・責任編集 松谷みよ子
絵 たかいよしかず
2001年1月20日 第1刷発行
株式会社童心社

怪談レストランシリーズ全50巻あるうちの第13巻目、あの世レストラン。
表紙には渡し船にお化けと、おじいさんの幽霊が描かれている。おじいさんは正にこれからあの世に旅立つと言った感じだろうか。そしてお化けギャルソンに似ているが、目つきと恰好が異なるお化けが気になる。
彼の名はあの世おばけ。
彼はこのレストランのオーナーではなく、三途の川の渡し守といったところか。当レストランから、本格的にあの世に旅立つ魂を運ぶ任の真っ最中だ。

目次

あらすじ

ようこそ、あの世レストランへ

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.2

珍しくレストランの外装が描かれていない。怪談レストランシリーズでは初であろう。
「外」を思わせるような場所、揺らめくカーテンのようなものが幻想的で美しく、猫や小鬼が見え隠れしている「あの世レストラン」の内装は、なんとも言えない不思議な雰囲気が立ち込めている。
表紙のおじいさんの幽霊はまさに前菜の髑髏と食前酒をいただこうとしている。食前酒が二つあるところを見ると「連れ」がいるのだろうか。
読者もゲストとなり、当レストランでお料理(お話)をいただくのである。
作品は全13話のオムニバス形式で描かれ、内3話はあの世レストランに関する話、内10話は広義のホラーに関する話で構成されている。「あの世」に関する話が多めの印象。p4-5 レストランのメニューを模した目次が非常に面白い。

メニュー

最初のおはなし あの世レストランができたわけ (松谷みよ子)

リンシタイケンという、生きながらあの世へ足をふみこんだ人たちが、そのままかえるの、つまらないじゃありませんか。おいしいものをレストランでゆっくりたべて、かえっていく、そうしたかったんです。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.12

臨死体験であの世を訪れたのをきっかけに、同じように臨死体験を通じてあの世に訪れる人間の魂のために、レストランをあの世につくっちゃおうという動機がなかなか面白い。

オーナーは実際に死んでいて、あの世レストランに常駐している。ここで疑問なのだが、オーナーである彼女は天国にも地獄にもいけない(いかなくてもいい)のだろうか。仏教によれば人は死んだ後中陰に至り、四十九日法要にて最終的な行先が決せられるはずである。このオーナーはその世界観を根本的に無視できていると言える。その許可は何に基づいて誰が与えるのだろうか。これは想像でしかないが、あの世に訪れた魂を「あの世レストラン」で歓迎するというその社会性を考慮し、閻魔大王が特別に許可をしてくれているのではなかろうか。

ところでこのオーナー、とんでもないことを我々に隠しているのだが、それは今は伏せておこう。

おきもののおはなし 銀の鈴 (松谷みよ子)

ふると、うつくしい鈴の音がひびきました。
この世のものとは、おもえないような…。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.16

あの世を「深い森」や「深海」と表現し、そこに寄り添うようなムード効果音として「銀の鈴」の音色が響き渡る。揺れるオーロラのようなカーテンを眺めるレストランに、客は何を見るのか。

生き返った男 (水谷章三)

三人のうちのひとり、とめ吉という男が、なにかの食いあわせがわるかったかして、ひどい腹痛をおこしたあげく、ぽっくりしんでしまったのさ。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.22

まず、食べた物があたって、ぽっくり死んでしまうという点において、中々に「時代」を感じさせる。彼らが出発する前に村の人間から「なまものくうなよ」と忠告を受けていたことからも、当時はこういった食べ物や、食い合わせというのは命を左右する重大な問題であったことが窺える。
とめ吉の魂の憑代として機能した伊勢神宮のお札は結果何年も効力を発揮し続けた。その神力は、さすがと言わざるをえない。

あの世にいった花むこさん (高津美保子)

みなさん、ちょっとたべて、のんで、おどっていてください。すぐにもどります

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.32

男は最初から花婿を現実に返すつもりはなかったのではなかろうか。彼は、死後の世界の神に花婿が会えば、彼は死後の世界に残りたいと言うモノだと思っていたのだろう。
死後の世界と現実の世界の時間の流れの速さが異なる点が非常に面白い。
「浦島太郎」と類似点があると言える。

ぼくを呼んだ? (八百板洋子)

しずかな、とてもきれいなところをあるいていたのに、だれかが、あんまりかなしそうに呼ぶので、もどってきてしまった。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.49

あの世で三途の川を渡ろうとするルカの魂とこの世でユリアナ家を訪れた彼の魂が同期したのだろう。
ルカの最後のセリフはユリアナとの恋の始まりを匂わせる。

あの世からのことづて (松谷みよ子)

あの世って、あるんだねえ。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.60

経帷子はあの世のドレスコードのようなものなのだろうか。それがないと「恥ずかしい」とする表現は興味深い。
娘が家の仏壇の鐘をチーンと鳴らす怪奇現象を起こせるにもかかわらず「経帷子を着せろ」とおじさんにことづてをした事を鑑みると、あの世から「メッセージ」を送る事は、難儀なものであると考察できる。
巷に聞くさまざまな怪奇現象の数々、それらは我々に何を伝えようとしているのだろうか。

あの世からあいにきた恋人 (杉本栄子)

あたしをのこしていってしまうのね
きっともどってくるよ

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.61

どこの国にでも、残された者がメソメソしていたら逝った者はいつまでも成仏できないという概念があるのだろう。
若者は呻吟の果てにアナミルを道連れにする事を決めたに違いない。

ヨミのクニ (吉沢和夫)

よくもわたしにはじをかかせてくれましたね

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.76

たくさんの人が知っているであろう古事記における有名なくだり。
子供のころの僕は、なぜイザナミの「恥をかかせたな」というセリフとその怒りについて理解ができなかったのを覚えている。それが、イザナギが「見るな」という約束を破ったことに起因することであると百歩譲って理解できたとしても、生きているときは旦那のような存在であったイザナギをなぜ襲うのか、なぜそこまでするのか、よくわからなかったのだ。

再読して、要は、人間世界の常識と、黄泉の世界の常識は、根本的に相いれない概念であることを土台に据えると、イザナミの言動の動機が少し分かった気がした。

ルサールカ岩 (斎藤君子)

いまでもあの岩には、ルサールカの手のあとが、くっきりとついているんだよ。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.96

「魔女のレストラン」においても同作者による「ルサールカ」という話が収録されている。「ルサールカ」に特別な想いがあるのだろうか。とはいっても「魔女のレストラン」における作品と、本作はストーリーが異なっている。

本作は所謂アンデルセンの「人魚姫」に近しいのではなかろうか。

三吉じいの雪 (望月新三郎)

きつねにばかされたんかよ、沖縄に雪っこふるか

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.108

見開きの挿絵を見た時思わずうるっときてしまった。

死者の告発 (岩倉千春)

ありがとう。あなたのおかげで、事実をしらせることができた。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.115

殺人の被害者が夢に出てきて犯人を知らせるという典型的なお話。とても分かりやすくて面白いが、なぜストックデンはグリンウッド夫人の夢に出てきたのだろうか。

デザート たましいをいれるつぼ (小沢清子)

おふくろ、これ骨つぼにいいだろ?

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.117

始まりが不穏で、終わりも不穏な話である。
一番のホラーポイントは「弟」ではなかろうか。
「あの世レストラン」の数あるメニューの中で、僕が一番好きな話である。

最初のおはなし あの世レストランができたわけ (松谷みよ子)

ほんとに、もうしわけありません。

怪談レストラン編集委員会 [2001]『あの世レストラン(怪談レストラン)』p.134

「おきもののおはなし 銀の鈴」から始まり「ヨミのクニ」を伏線としてこの話に至る。
銀の鈴の感動的な話かと思いきや、衝撃的なラストに思わずにやりとしてしまった。
「ほんとうに、もうしわけありません」とお辞儀をするオーナーの後ろに鬼たちが不気味に蠢き、物語は、幕を閉じる。

まとめ

あの世が本当にあるのかどうかについては様々な説があるし、そこを見たとか、そこに行ったことがあるという証言を聞かないでもない。僕の死生観と言えば意外にも、あの世なんてものはなく、人間は死んだら永遠の無意識モードに突入し「無」に帰すものだと思っているのが正直なところである。当然、あの世を信じる人達のことを否定するつもりは毛頭ない。それは一つの考え方であり、人それぞれ違って然るものであるからだ。そして極楽や地獄という行先やその条件を定義付けることはすなわち「死」に対する意味付けを行うことであり、物事の理由を求めがちな人間がそれを受容するためには避けては通れなかったということは自明といえる。
しかしこんなことを言っても、自分がいざ「死」を目の前にしたとき、同じような考えでいられかどうかについてはわからない。極楽に行けるようにお祈りをしだすかもわからない。


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