郵便屋
芹澤準
1994年4月25日 初版発行
角川書店(角川ホラー文庫)
最近は手紙をポストに投函する機会が減った。
僕の知る限りポスト自体の数も昔に比べて減ったし、年賀状も今は出していない。その事自体良いか悪いかは置いておいて、時代の趨勢であるなと感じる。年賀状に関しては小学生のころ、母に無理やり書かされて、字がミミズの様だった僕にとってそれは地獄のイベントであった。小さなテーブルの前に座らされ、何回も書き直しをさせられたからである。なので、年賀状がなくなってよかったなと、そんな短絡的でアホなことを考えてたりする。
本作はそんなポストに投函された郵便物を運ぶ、ある「郵便屋」の話である。
大好きな角川ホラー文庫の書評を今後多めに投稿していこうかなぁ、と思ったりしている。
第1回日本ホラー小説大賞佳作作品。
あらすじ
濃い紫から完全な黒に塗り替えられた夜の住宅街の向こうへと、郵便屋の乗った自転車は消えて行った。
芹澤準 [1994] 『郵便屋』 p.6
キィ…..キィ…..と漕いでゆくペダルの音を残して。
萩尾和人は郵便屋の男を車で轢きかける非接触事故を起こす。そののち彼の家に「ひとごろし」とだけ書かれた手紙が届くようになる。
時を同じくして、和人の同級生が怪死を遂げる事件が立て続けに発生する。その謎を解く手がかりはこの手紙が握っている。
書評
私はただの郵便屋です。
芹澤準 [1994] 『郵便屋』 p.184
この作品を読んで印象に残ったセリフである。
和人が郵便屋と対峙した際に、郵便屋が和人に向かって放った言葉だ。当初は誰もが郵便屋が物語の黒幕だと思ったであろう。和人の家、会社に手紙や小包を送り付ける謎の男。「悪臭を放つ寸前の、腐乱しかけた目」をもち、和人以外の人間には認識できない点をみるに、彼は明らかにこの世の者ではなく、怪異であることが物語の節々から読み取れるからである。確かに彼は怪異であった。ただし、和人に降りかかった災難の元凶ではなかったのだ。彼はただ「依頼人」に依頼され、郵便物を送り届けていただけである。その依頼人もこの世の者ではなかったのだが。物語の最後に、依頼人自身が和人の家に郵便物を届けるシーンがある。本来、届けようと思えば自ら届けられたのにも関わらず、彼が郵便屋を使ったのは和人、我々読者に対するブラフであり、そちらの方が結果的に和人に大いなる恐怖を与えることができたからであろう。
この物語は学生時代に壮絶ないじめの果てに自殺した男の子の復讐の物語である。いじめに加担した5人は全員命を落としているため、彼の本懐は果たされたのである。それにしても、なぜ事件から十年以上たってから彼は復讐を執行したのだろうか。本作には彼らが味わう呻吟を最大化し、死んでもらうための要素がふんだんにちりばめられている。まず、彼らが事件のことを忘れてそれぞれの人生を歩み、各々恋人などの大切なものを手に入れた後で復讐したほうが、損害はより深刻で大きなものとなるという点。そして先ほども記述したが「郵便屋」というもう一つの怪異のサービスを使用する点。最後の直筆の「ひとごろし」は自らが当時の姿のまま、直接彼らのもとへ郵便物を届けるという点などが挙げられる。
和人は急がしながらも中堅社会人になろうとしていて、恋人である玲子とは結婚を目前に控えている。公私共に順風満帆な人生を送っていた。それをいきなり奪うのではなく、恋人や会社の人間に、自らが犯した「いじめ」を認識させたうえで、命を奪うという点は和人にとっては地獄であろう。むしろ彼にとっては死ぬことよりも、今の人間関係のネットワークにおいてそのことがばれることの方が不快であろう。崩れ行く日常の中で化けの皮がはがれ、玲子までも手にかけてしまう和人は、やはり典型的な「いじめっこ」だったのであろう。自分の気に入らないことは武力行使で対処するという愚かな人間の代表のような存在である。これはいじめの加害者は更生などしないことを示唆しているのではなかろうか。
最後に、和人自身が郵便屋のオファーによって郵便屋になった件触れておく。少し笑ってしまったのだが、彼らはいったい何のためにそんなことをしているのだろうか。手紙の送り主はおそらくこの世のものではないであろう。あの世にはこういうサービスがあるのだろうか。送り先の人間がどこにいても、必ず、確実に郵便物を届ける郵便屋。
僕は「恐怖新聞」の鬼形礼を思い出さずにはいられなかった。
まとめ
いじめの心理とは何か。ストレスの発散、集団への同調、弱い自分を隠すための誇張、承認欲求などいろいろ考えられる。僕は今までの学校生活において、いじめたこともないし、いじめられたこともない。ただ、中学校のときにクラスメイトで真面目な男の子がする言動を数人がクスクス笑ってみていたのを記憶している。あれはいじめだったのだろうか。その男の子は僕も含めて友達もいたし、孤立するようなことはなかったと思う。物理的な暴力や罵倒は(いじめというか犯罪行為であることは明白なため)さておき、こういった嘲笑はいじめとなるのかどうかについては間主観的な問題も孕むため難しい論点ではある。とにかく、僕は人と話すときは「嫌な奴」にならないように気を付けるようにしている。ただこの世から「嫌な奴」が一人もいなくなることは絶対にないことも、分かっている。
少し話は変わるが、自分のことを話しすぎると「マウント取る人」「自分語りが好きな人」「でしゃばり」と言われ、自分のことを話さなすぎると「自分がない人」「やる気がない人」「よくわかんない人」と言われ、人間関係は本当に疲れるさかいに~。


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