人殺しの女の子の話
西岡兄妹
2002年12月20日 初版第一刷発行
青林工藝社
この絵本は、怖い絵本収集をしていたとき、ネットのまとめ記事で見つけたのだ。絵本といっても本作はその装丁が絵本ぽいというだけで、中身はバリバリの大人向け作品であると言える。挿絵もとてもお洒落で、独特な世界観ができあがっている。読んだあとの言語化に難儀する作品であったため、何回も読んだ。本当に面白い作品であると思う。
今回はそんな「人殺しの女の子の話」に関する記事を書こうと思う。
あらすじ
人を殺したい
西岡兄妹 [2002] 『人殺しの女の子の話』 p.2
女の子はそう思いました
理由はありませんでした1
日常に辟易した女の子は、ある凶行に及ぶ。
考察・書評
天国も地獄もありはしないわ、生活、生活、生活、あるのはそれだけよ
西岡兄妹 [2002] 『人殺しの女の子の話』 p.32
毎日、学校と家、もしくは会社と家の往復。朝、出発ぎりぎりになって寝床から這いだし、それっぽい朝食をもさもさ食べ、家を出る。社会に溶け込む日中が過ぎ、家に帰ってあれこれしたらもう寝る時間。このような生活を続けていると、所謂「退屈」に襲われるときがあるのではなかろうか。毎日同じことの繰り返し、虚しさ、無気力…この物語はそんな、きっと誰でも感じたことがある「日常の退屈」から抜け出そうとした女の子の話である。
And no alarms and no surprises
Radiohead 『No Suprises』
No alarms and no surprises
No alarms and no surprises
Silent, silent
僕はRadioheadのNo Suprisesを思い出した。女の子が、なんの驚きもない退屈なこの世界から退場するために、自殺ではなく、他殺をもくろむ点で差異があるが、その動機は似ているように思われる。
この物語に登場する家族は、皆、生活に辟易としていると言える。まず女の子の父母、彼らの言動がその根拠になっている。母の最期の言葉は料理ができなくなるというものだったし、父は仕事で疲労困憊している。前者は自らの生活が「料理(もしくは家事)」に支配されていて、人間の最期、かつ一人娘を前にして言い放つセリフとしてはやけにドライだ。後者は女の子がその徴表に察するに至ったにつき、本文でも言及されているが、父母が愛し合っていないことを彼女が理解していることが窺える。
女の子が最初の殺人を犯したあと、彼女はその晩を明かすまで2回涙を流している。1回目は母を殺した直後「悲しくて」泣く、2回目は母殺しが父に見つかると怒られるのでそれが「怖くて」泣く、の2回である。この2度の涙は一連の動作として描かれ、「悲しさ」よりも「怖さ」が勝ることから、女の子は泣くのをやめ、父殺しを決意するのだが、その流れが非常に怖いのだ。
翌日、女の子は一人逃走劇に興じるが、もちろん殺人は明るみに出ていないため、彼女を追いかける者は皆無なのだ。その虚しい一人芝居が嫌になった彼女は今度は自らを殺そうと考える。ここで、彼女が自殺せずに自首したのは、帰る所もなく絶望に暮れる中、たまたま警察官がパトロールに通りかかったからだと思われる。もし、ここで警察官と出会わなければ、父母が横たわる自宅で、女の子は首でもくくるか、母を刺した包丁で自らの心臓を突き刺したのではなかろうか。
恐怖の裁判を経て、明朝の死刑を牢屋の寝床で待つ女の子は、ある夢を見る。それは、自分が死んで天国にいったあとでも、父母と三人での生活があり、それは果てしなく、無際限に続いていくという夢であった。そして彼女は自らが犯した犯罪を「意味がなかった」と評価するのだ。これは退屈から抜け出すために、殺人を実行したのにもかかわらず、結局、あの世でも退屈な生活が続くのだという彼女の予測から生じたものであろう。このことはこの物語の骨子にかかる重要な部分であると考えられる。
女の子が退屈を脱するために考え付いた行為が「殺人」であるという点は、この物語がホラーであるが為の要ではあるが、きっと、誰もが作中の女の子と同じことをしているのではなかろうか。それはもちろん「殺人」ではないが、趣味に没頭したり、新しいコミュニティに参加して人脈を広げたり、消費したり、生産したり…鬱屈とした生活から逃れるために色々な事に精を出す。僕も、久しぶりにエレキベースを弾いてみたり、絵を描いたり、アニメを作ったり、山登りをしたりと色々やったりした。しかし誰もが気づくのだ。どんなに充実した時間を作れても、退屈な生活は永遠に、死ぬまで続くのだということに。そういう逃れようのない「違和感」や「不快感」をこの物語は描いているのではなかろうか。
しかし大切なことは「生活が続く」ことに絶望するのではなく、それが当たり前のことだと、どれだけ開き直れるかという事にかかっている。作中の女の子は一つ、重大な錯誤に陥っている。それは「死んだ」あともこの生活が続くという予測だ。「死んだ」あと、何を根拠に今までの生活が続くと言えようか。誰も死後の世界を見たことがないのに、今までと同じ生活ができると何をもって断定できようか。死後、もっと退屈な世界が広がっているかもしれない。であるならば、どこへ行っても、何をしても、誰といても、退屈なこの「生活」を全うすることでだけでしか、活路は見い出せないのではなかろうか。
まとめ
この作品に「ルビ」が振られていないのは、唯一の救いなのかもしれない。
- 本作品は頁の表記がないため、遊び紙の次頁より数えて表記した。 ↩︎


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